多段階契約と再見積

 法律とITの接点というと、掲示板での名誉毀損のようなものがまず思い浮かぶところですが、「企業の情報システム」の領域で言えば、システム開発委託の契約書が横綱級です。この分野では、以前はJISAのモデル契約書がポピュラーでしたが、2007年4月に経産省から「情報システムの信頼性向上のための取引慣行・契約に関する研究会」の報告書として、新しいモデル契約書が出されました。実務に少なからぬ影響を与えることになるでしょう。ここでは、このモデル契約書から題材をとって、情報システムの開発委託契約について考えてみたいと思います。

 「多段階契約と再見積」とは、要するに、要件定義・設計・開発...というシステム開発の各工程毎を別契約とし、したがって、契約の前提となる見積もその都度行うというものです。システム開発は、工事や建築などと違って、開発過程に流動的な部分が残らざるを得ないものですから、この方式自体は十分な合理性があるものとして、モデル契約ではJISA以来採用され、実務にも浸透しています。
 ベンダの立場からすると、特に大規模開発では、システム化計画をやっているような先が読めない時期に開発全体の期間と金額を合意してしまうのは、すべての変動リスクを背負うことにほかなりませんから、必須あるいは当然と言いたいところです。他方で、ユーザの側からすれば、2年・10億のつもりで始めた開発が実は5年・30億だった、などということになったら、投資計画も何もありません。これを採用するとしても、基本契約上、再見積には合理的抑制をかけておくことが必要になります。
 もっとも、まともなベンダであれば、そのような見積提示をすることはないはずです。そもそも、ユーザは、中長期の経営計画と一定の予算的枠組みの中でシステム開発を計画するわけですから、「これだけの機能を開発するのには、5年・30億かかります。」という教科書的見積は、実はナンセンスなのです。「2年・10億で開発できるのは、この範囲の機能です。」というところからスタートして、合理的な開発範囲を探りながら、期間と金額について互いに歩み寄る、というのが普通の見積であり、契約交渉です。私が過去に見てきた見積もそのようなものでしたし、ベンダ側に立つ人間として、「そうでなければ通用しない」と思っていました。
 ところが、昨今では平気で「5年・30億」と言うベンダもあるようです。技術部門がひとまずそのような見積を作るのはともかく、これが営業部門を素通りしてユーザに提示されるというのでは、営業が営業の役割を果たしていない気がします。このようなやり方では、本来合理的であったはずの段階的契約と再見積が、反ってユーザとベンダの衝突の種になってしまいます。この裏には、見積自体の精度の問題もあって、そうだとすると、せっかくの多段階契約もその合理的基礎を欠いた、「紛争の先送り」でしかないことになります。
 他方、ユーザもシステム開発の難しさを十分に理解してないケースが目立ちます。「10億円もの予算を組んだのだから、もうこれ以上は出せない。」と言わんばかりに、追加予算のための手当が全然なされていないケースがあるのです。システム開発は未知への挑戦です。10億が30億になるというのはともかく、10%や20%程度の膨らみは、ベンダの見積誤りがなくとも、現場部門からの過大要求がなくとも、十分あり得ることです。ベンダにムリな「吸収」を迫ることは、決してユーザのためになることではありません。
 この多段階契約の対極にあるのが、一括請負です。これは、早期に開発予算を確定させたいユーザの側が希望するものですが、仮に10億円の一括請負で契約したとしても、10億円の開発予算が確定できるわけではありません。「○○システム一式」のような契約があるわけもなく、契約範囲には、10億円なら10億円と見積もられた「ある範囲」のシステムが含まれるだけだからです。少なくとも、「ある範囲」を超えれば、そう考えているベンダから追加費用の請求を受け、プロジェクトは紛争状態に向けて動き出すでしょう。